あなたの燃える左手で – 朝比奈秋

おおみ やつたさんは、国境を、物理的に脚でまたいだことはありますか?

やつた 脚で、ですか。じゃあ、またいだことはないですね。海外旅行にあまり行かないもので、昔、家族でグアム旅行に行ったときに飛行機でまたいだくらいですかねえ。

おおみ 私も国境を、脚でまたいだことはないんです。海外はけっこう行っているけど、気にしたことはありませんでした。一応ヨーロッパで、ユーロスターでビューンとか、バスでとろーんとまたいだことはあるんですが、なにも覚えていません。あんまり、国境とか県境とか、気にしたことはないです。気にするのは、自宅の敷地かそれ以外か、くらいでしょうか。たまにあるんですよ、お隣さんとの関係は良好なんだけど、なんかなしくずし的な感じで、おや、うちの家のテリトリーにはみ出してきているぞ、みたいな。

やつた そういうときはどうするんですか?

おおみ そっと、押す。押し戻す。

やつた それで解決するんですか?

おおみ 解決というほどではないけど、しばらくは、一年くらいはそれでなんとかなるので。

やつた ちなみに今回は、そんなゆるい感じのおおみさんが、国境ってなんだろうって考える回ですよ。

おおみ えっ、そうだったの? ……まあいいや。そうだなあ、うーん、あれだよね、「海外」という単語、“海”の“外”という言葉が外国を指している、というのがまず日本人的発想でおもしろいですよね。

やつた 鎖国していた島国的な表現ですよね、まさに。

おおみ 自宅テリトリーの戦いしか知らない日本列島民A、頑張ります。

やつた さて今回は、朝比奈秋『あなたの燃える左手で』を取り上げたいと思います。これは確か、おおみさんのチョイスでしたね。まずは選出理由を聞いてもいいですか?

おおみ 皆川博子さんのコメントが帯に書いてたから、です。

やつた ……。その割には、おおみさん、電子書籍購入でしたけど……。帯、手に入らないじゃないですか。

おおみ えへ。まあ収集癖はないので、そのあたりはいいんです。紙の本、
出先で読むために持ち歩くの、肩が凝るんですもん。あ、あとは、インスタの読書垢的なやつでこの本の紹介を見かけたから、というのもあります。それらのタイミングがちょうど重なって、興味をもちました。

やつた ……とか言いつつ、僕の本の帯剥がそうとするのやめてください!

おおみ あ、いや、気のせいですよ、気のせい。ちょっと気になって手に取ってみただけ。ほら、元に戻した。ね?

やつた ……。で、どうでしたか。まずはざっくり感想を。

おおみ 本音を言えば、ちょっと読みにくかったです……。本題はちゃんとあって、そのあたりは別にわかりにくいとかはないんだけど、文章的な読みにくさに意識を取られてしまうところが大きかった、というか。やつたさんはどうでした?

やつた 作品のテーマというか、作者がこの作品を通して体現したいことはよくわかりましたし、面白い試みだったと思います。僕は読みにくいと言うよりも、物語の組み立てを整理するのにちょっと時間がかかりましたね。進めていく土台が固まらないとサクサク読めなくて。

おおみ ストーリーが展開し出すのが、半分手前くらいからなので、余計にそう感じてしまったのかもしれませんね。

やつた そうそう、あらすじ紹介を忘れていました。

おおみ そうそう。左手を失っていた主人公アサトは、他人の左手を移植する手術を受けたのち、目覚めるところから物語がスタートします。

やつた 移植された左手を慣らすリハビリを受けながら、混濁していた記憶をたどっていきます。なぜ左手を失うことになったのかというエピソードや、主治医や家族といった人間関係についても触れられていきます。

おおみ 移植という人体の医学的施術と、現在のロシア・ウクライナ・ハンガリーをめぐる情勢とが重なっていく。……って、あれ、これ、ネタバレになってないですか?

やつた ここまでは大丈夫、なはず。主人公アサトの記憶の混濁が物語を押し進めていきます。

おおみ 個人的には、この主人公の記憶の曖昧さによって、過去のエピソードであったり、現在起こっていることがいったりきたりしていて、それによって物語の立ち上がりが遅いかなと感じてしまいました。

やつた 序盤から、「この主人公の記憶は混濁しているぞ」というキーワードはちょこちょこ散りばめられてはいるものの、若干不十分といえるかもしれません。だから読者は、ここは確実か? いやここはあやしいか? と、いちいち構成を考え組み立てながら読む必要に迫られます。しかもこの段階、序盤では、まだストーリーは明確に提示されていないので、なおさら不安になってきます。

おおみ 私も、なんだか作者に対して不安を抱えたまま、どう収集をつけるのかと思っていたのですが、最後は綺麗にまとまっていたのでよかったと思いました。

やつた 僕は、記憶の混濁で曖昧になっているアサト目線の進行を読んでいて、『カッコーの巣の上で』という小説を思い出しました。

おおみ それってどんなお話なんですか?

やつた 精神病棟が舞台になるんですが、作中のキャラクター目線で物語が進行するんです。でも精神疾患を持っているキャラクターの目線なので、書かれていることを多少疑いながら読まなくてはいけないという……。

おおみ なるほど、『あなたの燃える左手で』でも、確かに、主治医のゾルタンの目線で書かれている部分では、内容は客観的でした。アサト目線で書かれていたことと少し違うところもありましたね。

やつた 主治医ゾルタンの目線で書かれていることから、作中で起こった真相が推理できます。あとは、妻のハンナも、そうでしょうか。

おおみ ハンナは、これもキーとなるポジションのキャラクターですね。

やつた ゾルタンもハンナも、作者がこの作品で描きたいことを提示する役割が強いですね。

おおみ 私は、ハンナについては、行動の強いキャラクターではあると思うんですが、どうにもその理由や背景が見えづらかったです。

やつた ハンナの役割は、情勢を主人公に回顧させることにあったから、背景については、あまり触れられていなかったですね。

おおみ 本編で、ハンナと主人公の結婚に至るまでの恋愛模様がなかったせいもあるかも。どういう思考回路の持ち主かが掴みにくかったです。……これはたぶん、作者の方が、恋愛要素を気にしていないせいかと思いますが。

やつた 言われてみればたしかに、キャラクターの背景や関係性の深さよりも、それぞれの主義主張の方が全面に出されていた気がします。

おおみ 恋愛だけでなく、各登場人物の感情などの描写も希薄でした。作者さんはきっと、論理的にものを考える方なんでしょう。想像力はあるけど、共感力はないというか……。作者の職業がお医者さんとのことですが、向いてらっしゃる。

やつた お医者さんが患者に共感しすぎて、治療に支障が出るのは問題ですからね。まったく共感しないわけではないんでしょうけど。

おおみ 医療現場って、共感の主役は看護師さんですしね。そんなこんなで、この作品、作者の性格か職業柄か、キャラクターの感情というよりも、事実の提示や描写に重きを置いていた気がします。キャラクターの感情を想像して、共感させるように書くというより、目の前で起こってることをどう書くかということに注力していた印象。

やつた 物語中にも、診療という観点から書かれている部分がありました。知識はお持ちだと思うのですが、それによって少なからず違和感もありましたね。医学の知識がないはずの登場人物が、それっぽい用語を使って思考していたり。

おおみ 独特の描写にはなっていましたね。多少の違和感はあるものの、ねっとりめが好きなわたしは楽しく読めましたね。

やつた 読み手の受け取り方に幅ができるな書き方だなとも思いましたね。物語中の出来事が時系列に沿って描かれないので、直接書かれていないことを想像しないといけないから。それも手伝って、キャラクターがあまり印象に残らなかったのかもしれませんね。

おおみ 出版社が出した公式コピーかどうかは忘れてしまったのですが、どこかで「移植されていたのは他人の腕…!?」みたいなコピーを見ていたから、この小説は、移植された左手をめぐる物語かなと思っていたんです。

やつた もちろんその側面はあるんですが、移植された左手はキーワードに過ぎなくて、本質としては、国に振り回される国民にスポットが当たっていたんですね。

おおみ その本質に行きつく過程の中で「主人公の記憶が曖昧だっただけ」という軌道修正があって、しかもそこはストーリーのメインというわけではなくてただの通過点で、という進行にちょっと拍子抜けな気もしてしまって……。

やつた 移植された左手についても消化しきれないまま、アサトの回想が断片的に挿入されるから、色々な要素がごった煮になって、すべてを追いきれない部分はあったかも。

おおみ 日本人がハンガリーで移植を受けるだけでも現実味が少ないのに、そこに記憶の混在とか国境とか故郷とか出しはじめて、このごった煮をどう完成させるんだろうか……、みたいになっちゃって。

やつた 移植というキーワードで、どうしても左手に気が向いてしまうんですが、作品の中心はやはり、アサトが自分に降りかかってきた出来事をどう考えるか、ということになっていきますよね。そこに各国の情勢が絡んできて、思いを馳せるものが左手や国境や故郷に移り変わる。

おおみ 日本人の我々にとってはちょっと唐突な要素をごった煮したから、思考を移動させるためにも、描写が細かくなる。
やつた この作品の目的のひとつとして、アサトの左手を通して、失われた故郷や変化する国境を表現する、ということがあると思います。誤診という理不尽によって切断されてしまった左手は、各国の都合によって失われてしまった故郷を示唆しますし、他人の左手を移植されて縫合された手術の痕は、新たに作られた国境を表しますよね。

おおみ アサトの体に起こったことが、国境や故郷と重なり合うんですね。……国境と故郷って、音が似ていますね。

やつた あ、ハイ、そっすね……。そして、左手を理不尽に失ったアサトが、故郷を失った人々の心境を代弁する存在でもあります。

おおみ 主人公アサトの記憶がだんだんとはっきりしていって、真相が見えてくるというストーリーになっていましたが、私は個人的に、時系列で書いたほうがスッキリして、主題もよりハッキリしたんじゃないかと思っています。個人的に、スッキリハッキリ、は純文学では大事だと思っているので……。ハンナと出会ったところだけを回想にして、移植した他人の腕をきっかけに、ウクライナやドナーに思いを馳せる、という流れでもよかったんじゃないか、と。

やつた 登場人物の心情はそれぞれ考えるとしても、作品の目的がはっきりしているから、描きたいことからはブレていないと思います。

おおみ そうですね。描きたかったこと、はブレてはいない。作者が描きたいことを、読者が、積極的に汲みにいかされている感じはありますが。受動的に「自分の好きなように理解しておこう」という余地もないので。……って、また構造の問題ばっか言っちゃった……。でも、日本人に疎い要素・切り口ばっかり詰め込んで、眼前に突きつけてやろうと思うその心意気はとても好きです。共感力が低くないとできないでしょ、こんなの。

やつた めっちゃ言うやないですか。

おおみ めっちゃ褒めてるんですよ。共感力が低いっていうのは、悪いことではないです! 自分の描きたいことに真摯に取り組める強い力ですよ。たぶん……

やつた この作品は2023年6月末に書籍化されました。作中でたびたび登場するクリミア半島をめぐるウクライナの政策が発表されたのが2021年、ロシアのウクライナへの侵攻がニュースになり出したのが2022年です。

おおみ タイムリーですよね。2023年現在のロシア侵攻のことも作品のラストで触れられていました。移植と国境変化の類似性も、この2年の間にかたまっていった構想なんでしょうね。

やつた 移植の話は後からにしても、このウクライナの情勢に作者は思うところあって、作品へ着手する衝動になったことは想像に難くないですよね。

おおみ 作品を生み出す根源が、このニュースだった。

やつた だから、作品の根本に国民性や、世界情勢が反映されている。むしろその衝動がそういう方向に作品を引っ張っているとも言えますね。衝動があったにしても、すぐに作品に着手できるバイタリティーはすごいですね。

おおみ 目的に対してブレない心、ってやつですね。

やつた お医者さんってやっぱりすごいなぁ。

おおみ いや、そこは違う。お医者さんもすごいけど、毎日出社してくたびれてるやつたさんもすごいんですよ! もっと自信もってください!

やつた ……ありがとうございます。

少し、国境をまたぐという経験に興味がわきましたね。

とりあえず、府県境からはじめますか。それか、家境?

家境は幾度となくまたいでますね……。